高田屋嘉兵衛は1769年(明和6年)に淡路島に生まれ、廻船業を営みました。そして函館を根拠地として択捉航路を開拓し、択捉島・国後島・根室・幌泉の漁場を開き、海運を発展させました。その功績は非常に大きく、 特に1799年(寛政11年)に東蝦夷地が徳川幕府の直轄となると択捉島の航路を開き、近藤重蔵らを千島調査に導いたことは有名です。

このような中で、江戸時代の文化年間(1804−1817) に根室の金刀比羅神社とその付属社として弁天島に市杵島神社を建立しました。金刀比羅神社は昭和61年に創祀180年を数え、高田屋嘉兵衛の銅像を建立しました。根室では、毎年8月9、10、11日の3日間に渡り、金刀比羅神社例大祭が開かれています。



ゴローニン
ディアナ号艦長・ゴローニン

高田屋嘉兵衛について語るとき、ロシアの提督ゴローニンとの関係を述べなければなりません。 ゴローニンは1807年にカムチヤツカへの資材供給と北太平洋の水路調査のため、ディアナ号の艦長としてロシアを出発し、1811年に千島列島の測量に従事中、国後島に上陸。そこで南部藩の守備隊に捕えられました。 これは1807年にロシア人フォストフらが択捉島の番屋を襲ったことの報復措置としてゴローニンを捕えのです。ゴローニンは、 2年余松前に幽閉され、その時の彼の手記が諸国語に翻訳されてヨーロッパ中に知られるようになりました。 わが国で1825年(文政8年)にオランダ本から訳され『遺厄日本紀事』として紹介されています。さらに村上貞助や上原熊次郎にロシア語を教授しました。





民間外交官・嘉兵衛

高田屋嘉兵衛は1812年(文化9年)に択捉島の漁場視察の帰り、ディアナ号の副官リコルドにより捕われの身となりました。嘉兵衛は事件の解決に全力をもってあたり無事帰され、そしてゴローニンもリコルドに引き渡されて日露間の非常に難しい問題を解決したのです。現在の「北方領土」問題を語る時、引き合いに出されるのは、この嘉兵衛の外交交渉で、 現在も見習うべきものとして語られています。

現在、穂香金刀比羅神社に「願主高田屋嘉蔵」と書かれた1個の鈴が奉納されています。高田屋嘉蔵は嘉兵衛の弟です。このように高田屋と根室の歴史は強く結びついているのです。