1792年(寛政四年)9月にロシア皇帝の正式な使者としてアダム・ラクスマンが、日本との通商を求 めて根室に来航しました。この時、根室にいた松前藩の会所の役人は驚き、藩主・若狭守章廣へ急報しましたが、藩主もロシア皇帝の使節として通商を公式的に求めてきたことに対して判断ができず、江戸幕府へその対応を委ねました。江戸幕府では老中・松平定信を中心に協議した結果、松前藩に対してはラクスマン一行を歓待すること、また南部藩、津軽藩に対しては兵を出し根室と函館の守りを固めるように命じました。また使節の対応役として、目付2名を松前藩に派遣しました。

アダム・ラクスマン
(市立函館図書館蔵)
しかし幕府が迅速な対応をした訳ではありません。ラクスマン一行を乗せたエカテリーナ号が根室に入港したのが9月2日、幕府の交渉役が決まったのは11月、使節対応役の目付が松前藩に到着したのが翌年(寛政五年)の3月8日、そして幕府の役人が交渉の下準備のために根室に入ったのは同年4月でした。
ラクスマン一行は交渉を松前藩で行うという幕府の求めに応じ、海路函館に行き、そこから陸路福山城下へ向かいました。そして福山の松前浜屋敷で実際に交渉が始まったのは、1793年(寛政五年)6月21日でした。

エカテリーナU世号
(根室市博物館開設準備室)
このラクスマン一行の中に、大黒屋光太夫、磯吉、小市という3人の日本人がいました。この3人は10年前に遭難しロシアに漂着し、その後ロシア皇帝から帰国を許された漂流民だったのです。
ラクスマン一行が福山へ場所を移すまで、9ヶ月近く根室に滞在した訳ですが、その日常の暮らしぶりはどのようなものであったのか、興味をそそられます。またラクスマン一行が、厳寒の地でどのように越冬したかについては、その手掛かりになる資料はほとんどありませんが、唯一その様子を伺わせる絵(天理大学図書館蔵)が残っています。その絵には結氷した湾内のエカテリーナ号と陸上の運上屋付近が描かれていて、氷上を船へ運ぶと思われる荷物を載せたソリを引く様子も見られます。

ラクスマン根室冬営の図(天理大学図書館蔵)



