1782年(天明二年)に伊勢白子村から米などを積んだ神昌丸(千石船)が、乗組員(船子)17名を乗せ江戸へ向かいました。途中で暴風雨に巻き込まれ遭難し、船は7ヶ月あまり漂流し、アリューシャン列島のアムチトカ島に漂着しました。光太夫、磯吉、小市らはここに4年間留まり、その後カムチャツカ半島を経て大陸に渡りました。



当時ロシアではピョートル大帝時代に発せられた「日本からの漂流民は、首都に連れてくるように」という方針が引き継がれていました。つまりロシアの東方政策にとって、日本との交易やそのための情報を必要としていたのです。光太夫以前にも1690年代後半から遭難した多くの日本人がロシア沿岸に漂着しています。その多くはロシアに帰化し、日本語学校の教師になった人たちもいます。特に1697年にカムチャツカに漂着した大阪の伝兵衛は、1702年(元禄15年)にロシア大帝ピョートルT世に謁見し、大帝に日本の事情聞かれています。そのあと大帝は日本語学校を創設して伝兵衛を教師にしました。
光太夫らは首都ペテルブルグに向かう途中、バイカル湖に近いイルクーツクに滞留(1789年)しています。その町には、内陸にもかかわらず航海学校があり、また国立の日本語学校も併設されていて、光太夫らはここで寝泊まりをしたようです。


光太夫と磯吉 (早稲田大学図書館蔵)


光太夫らはロシアへの帰化を望まず、日本への帰国を希望していたので、首都ペテルブルグでロシア皇帝エカテリーナU世に謁見した際、帰国の許可を申しでました。ロシア皇帝エカテリーナU世は光太夫らを日本に送るについて、日本と正式に交易をすべく交渉使節を派遣したのです。そしてその派遣使節といっしょに帰国したのが、光太夫、磯吉、小市の3名でした。しかし小市は、根室に着いたまもなく壊血病により無念の死を遂げました。


根室でのラクスマン一行 (天理大学図書館蔵)

光太夫はロシアの通訳として通商の交渉にあたり、ラクスマンが帰国後江戸で将軍徳川家斉に謁見し、ロシアの状況を報告しました。その後光太夫らは、鎖国という中あまりにも外国の事情を知りすぎていたことから、江戸で幽閉され、生地の伊勢白子村へは一度も帰ることが許されず、死亡したと伝えられています。